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<成田家>
「井の中の蛙にはなりたくなかろう? たまには自国を飛び出して、敵国に行ってみるのも一興だぞ。」
- 延徳元(1489)年、山内上杉氏配下の豪族、成田親泰が突然、太田道灌の縁戚で、扇谷上杉氏に属する忍大丞の館を襲い一族を滅ぼし、延徳二(1490)年に築城を開始し翌年完成したと伝えられる。連歌師の宗長は永正六(1509)年、成田下総守顕泰(親泰)の忍城に立ち寄っている。天文二十一(1552)年、関東管領・山内上杉憲政が北条氏康に上州平井城を追われ越後へ逃れた後、天文二十二(1553)年に北条氏康が忍城を攻めたが陥ちなかった。永禄二(1559)年(永禄三年の誤りか)、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣した際には、成田長泰は抵抗の構えを見せたが、謙信の軍が城下に無差別に放火したのを見て降伏、謙信に帰順した。永禄四(1561)年の上杉謙信の小田原城攻めでは謙信の軍に加わり先鋒として小田原城を攻めたが陥落せず、帰途、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で謙信に無礼を咎められ、忍城に退陣する。その後はふたたび北条氏に帰順し、天正二(1574)年には謙信に攻められるが持ちこたえて堅城ぶりを示した。天正十八(1590)年の小田原の役では城主成田氏長は小田原城に籠城し、残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠った。攻城の総大将・石田三成は館林城を陥とした余勢で一気に力攻めを行ったが、意外なほどの堅城ぶりに水攻めを発案、延長28kmにも及ぶ「石田堤」を築堤したが、籠城兵が堤に細工し決壊、逆に三成の将兵二百七十名余が溺死した。結局、小田原城開城後も支城としてはただ一つ落城せず、城主氏長が秀吉軍に内通した功と、城兵の助命嘆願を受け入れる形で開城した。家康の関東入封後は、松平家忠が入城し、文禄元(1592)年には家康の四男・松平忠吉が十万石で入城し、慶長五(1600)年に尾張清洲城に転封となった。その後は酒井讃岐守忠勝、松平伊豆守信綱、阿部豊後守忠秋らが入城、元禄十四(1701)年阿部正武の時、幕府は忍城の三重櫓・二重櫓および帯郭の新たな造営を許可した。文政六(1823)年、松平下総守忠堯が入城、四代の後に廃藩置県を迎え廃城となった。
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- 「成田 家時」
成田氏のおこりは、寛仁年間(1020頃)藤原大納言行成の次男、忠基が武蔵守となり、武州騎西(埼玉県騎西町)に荘園を営む土豪になったのがはじまり。5代目の助高は成田(熊谷市上之)に移り住み「成田大夫」といったことが成田を氏とする最初だった。
正平23年(1368)に生れ、成田12代を継いだ家時は近隣諸侯を従い、山ノ内上杉家に従軍。相模川の合戦(1416)で軍功をあげ、関東八家に数えらる国持衆(後の大名)にまで隆盛する。
慶永18年(1411)成田村に菩提寺として龍淵寺(りゅうえんじ)を創建。従五位下、左京亮に任せられ、成田家中興の祖となり、應永27年(1420)53歳で永眠。
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- 「成田 顕泰」
永禄2年(1430)成田資員の嫡子、14代顕泰(あきやす)は僅か8歳で家督を継ぐ。
寛正の乱(1461)の際し、顕泰は行田の地に防塞をつくり、先陣の砦とした。それは忍の東北の地の高台で、周りは沼沢と深田にかこまれていた。後にその地に真言僧通伝によって長久寺を創建させる。
文明12年(1480)顕泰は隠居し、入道して「清岩」とj名乗って諸国行脚に出発。上州から信州、越後、出羽、陸奥と廻り下総に入って文明16年、安房国狭階(千葉県勝山市)で62歳で亡くなる。廻国の深意は諸国の形勢を視察して嫡子親泰に語らんとするにあったらしい。
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- 「成田 親泰」
15代親泰(ちかやす)が家督を相続した関東の地は戦いのない日はないといわれる程、古河公方足利成氏、山内上杉、扇谷上杉、それに従う各地の土豪が入り乱れていた。
文明18年(1486)謀略に踊らされた主君上杉定正によって太田道灌が暗殺されると、実力者亡き後の関東は勢力分野が崩れ、北条早雲がのし上がってくる。
成田氏は深田と沼沢の要塞の地、忍の地をかねてより望んでいたが、太田道灌と姻戚関係のあった忍大亟(だいじょう)の館があった。しかし道灌の死を聞いた親泰は延徳元年(1489)山内上杉氏と謀り忍氏館を急襲、攻略に成功する。そして領内を統一した親泰は忍氏館跡に延徳3年(1491)忍城を築城させる。
永正12年(1515)姉の三庭尼の遺言により常慶院を建立。太永2年(1522)親泰は隠居し、入道して「宗蓮」とj名乗り、同4年61歳で他界する。
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- 「成田 長泰」
16代長泰(ながやす)の時代の忍城は、関東制圧を狙う小田原の北条氏康と、関東進出を目指す越後の上杉謙信との二大勢力の狭間にいた。
長泰は最初北条氏に属していたが、永禄3年(1560)謙信の関東出兵の際、忍城を攻められると上杉氏に屈服。ともに小田原城に参陣する。このとき謙信が鎌倉八幡宮に参詣した折り、長泰は成田家のしきたりとして下馬して迎えず謙信の怒りを買うことになる。そして再び離反し北条氏に属したため、謙信によって属城の羽生城を奪われ、さらに忍城の喉元に砦を築かれるなど苦戦を強いられる。
この頃から嫡子氏長との間が不和になり、ついには氏長によって城から追放されてしまう。このとき北条氏が父子の争いに介入してきたが、北条氏の忍城の併呑を看破した長泰は、菩提寺である熊谷・龍淵寺に隠居し家督を氏長に譲ることによって、ことなきをえる。
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- 「成田 氏長」
氏長は、父長泰と不和になり、クーデター的に父を追放。成田16代当主として永禄9年(1566)家督を継ぐ。
天正18年(1590)、豊臣秀吉は大軍を率いて関東征伐に兵を進め、北条氏の小田原城に迫る。北条氏に属していた氏長は弟、泰親(やすちか)とともに参陣、小田原城に籠城する。忍城は城主留守時に石田三成率いる豊臣方に攻められるも持ちこたえ、小田原城降伏後も抵抗続けるが、まもなく開城。文明年間から守り続けた城・領地の全てを失い、氏長はじめ成田一族は蒲生氏郷にお預けとなり、会津に向う。
会津での逗留中、内乱が起きると成田一族は武功を上げ、やがて家康に召し出されて烏山城(栃木県)2万石を与えられる。その後氏長は、秀吉の文禄の朝鮮出兵に参陣したが、京に上洛し、さかんに連歌の会を催し、当代一流の文化人と交流し、連歌三昧の日々を送った後、文禄4年(1595)逝去する。
家督は弟の泰親が継ぎ、それから嫡男重長、その弟泰元と続くが、大阪夏の陣後、泰元が急死すると後継がなく家は断絶。
<忍城>
「水の城、いまだ落城せず」
- 別名・・・「浮城」「亀城」
- 関東七名城(他に佐竹城、唐沢山城、宇都宮城、金山城、前橋城、川越城)の一つ。
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- 「石田三成の忍城攻め」
天正18年(1590)のことである。天下統一を目指す豊臣秀吉は、大軍を率いて北条氏の小田原城を包囲した。それと同時に、別働隊を用いて、北条方の関東諸城を攻略させた。その一隊の大将に任じられたのは、若干31歳の石田三成がである。三成が率いたのは、東国の大名の軍勢23,000余の大軍だった。当時の三成の身分や他の別働隊の将の顔ぶれから見ると、これは大抜擢である。北条氏に加勢した忍城の城主・成田氏長は小田原城に入り、忍城は残った士卒・兵・農民ら三千が立て籠った。石田三成は、館林城を陥とした余勢で一気に力攻めを行った。天正18年6月のことである。三成は、忍城を望むことができる丸墓山の頂きに本陣を構えると、果敢に攻めさせた。しかし、忍城は関東7名城の一つに数えられるほ堅固な城で、周囲は沼地・低湿地で囲まれ、大軍を持ってしても容易に近づくことすらできなかった。城攻めは難渋を極めた。そこで、石田三成が取った戦法が水攻めである。水攻めは三成が仕える秀吉の得意とする戦法であった。彼は、近在から十万の人夫を集め、丸墓山を起点として、元荒川と利根川を結ぶ全長28kmの大がかりな堤防を築かせた。通説では、わずか5日で堤を完成させたという。この堤防が、後世、石田堤と呼ばれるようになった堤である。忍城は浮城ともいう。水害の際でも水を被らないことから、その名がついたとされている。この城を水没させるのは、もともと困難だったのである。運も幸いした。この年は空梅雨だった。わずかに堤防内に水も溜まって城の周囲が湿地のようになったものの、忍城の高さまでは届かなかった。また、築堤工事に籠城兵が紛れ込んで堤に細工したため、堤が決壊して、逆に三成の将兵270余名が溺死したとも伝えられている。石田三成の応援に浅野長政も駆けつけ、忍城を攻撃した。敵の首30を取るという武功を挙げたが、城は落ちなかった。結局、小田原城が開城した後も、忍城は支城としてはただ一つ落城せずに残った。この城が開城したのは、それから一ヶ月以上の籠城のあとである。城主の成田氏長が秀吉軍に内通した功と、忍城内の兵と町民を全員助命することを条件に開城交渉を秀吉に持ちかけ、秀吉の了解が得られたことによる、とされている。
<松本誠・主棋歴抜粋>
- 96年 都名人戦2位/朝日アマ名人戦2位/平成最強戦優勝/アマ名人戦3位
- 98年 平成最強戦東京2位
- 99年 都名人戦優勝/彩の国名人戦優勝/アマ王将戦3位
- 00年 アマ王将戦優勝
- 02年 彩の国名人戦優勝
- 03年 関東名人戦2位
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